循環論法

比較的最近、統合失調症とうつについての最近の考え方という文章を

かなり抑制的に書いたのだけれど
その後、アメリカでも日本でも再度の見直しが進行していて
書き換える必要がある程度の事になっていると思われる
ここのページの
4つめ
というファイルがそうなのだけれど
加藤先生は大胆なことを書いている
(加藤先生の論はずっと変わらないで一定しているのだが、世間の論調が加藤先生に接近した感じになっている)
DSMやICDで診断すると誰でも診断できるのだけれど
たいていは過剰診断になってしまう
なんていう古くからの話題がまた持ち出されている
この部分はいつも循環論法になることになっている
過剰診断だと言うからには根拠があるはず
その根拠を診断基準にすれば解決するはず
しかしそれが今のところできない
なぜなら疾患の本質も分からず原因も不明、治療法も完全ではない
だから、その第一歩として、疾患の輪郭だけを共通語として暫定的に決めようというのが
DSMの趣旨だったと思う
だから輪郭がぼやけるのは当然であり
暫定の輪郭を定めるとして
疑陰性がたくさん出るよりは疑陽性がたくさん出たほうが研究段階としてはいいだろうということになるはず
それなのに疑陽性が多すぎると文句をいうならば
まず疾患の本質を提示すべきだ
DSMは分かっていないが自分には分かるというのは
どうなんだろう
なんていう話になるわけだ
つまり、疾患の本質がわからないから輪郭も境界も決められない
そこで暫定的に決めたら
それは緩すぎるという
どこが緩いのかきちんと提示してもらえば精密にできるのだけれど
意見を聞くと全く精密な話ではなくて
分かる人にしか分からない話になってしまっている
それだとダメでしょうというのでDSMが始まった地点に戻る
あと果てしなく循環
ーーー
病態についての質的な配慮が欠落していると書いているのだが
私は質的な観察を量的な測定に変換できないうちは
不毛な議論が続くだろうと思っている
私にだけは分かると語る反省のない人がいつまでも残るからである
ポパーの仮説の反証可能性を参照して
その人の理解の反証可能性を検証すればいいと思う
何が証明されれば、その人はうつ病を理解していないと証明できるのか
ーーー
遺伝子研究で統合失調症群と躁うつ病群の峻別ができないことが紹介されている
家系研究や遺伝研究で、両者は峻別できないことは昔から知られている
しかし、このことで、二つの病気が根本的に同じだとか言えるはずはない
ひとつの見解として紹介されているのだが
統合失調症の場合にみられる遺伝子変異は
たとえば塩基欠損といったより重大な遺伝子変異が多く
双極性障害の場合にはそのような重大な変化はみられない
その点では統合失調症は、神経発達障害の要素が認められ、
自閉症や知的障害に近いものだという
私の考えでは
そのような見込みが書かれているだけであって
これもまたいつものように、そのような統合失調症もあり、そうでない統合失調症もあるとなるだろう
なぜそのように違うものを同じ病名で概念化しているのかを考えたほうがいい
言及されている自閉症にしても知的障害にしても
遺伝子との関係で言えば色々なケースがあるので画一的なことは言えないと思う
ここでもまたそれぞれの概念をどう定義するかが問題で
その定義を確実にしたいのでとりあえず輪郭を定めて研究し
そうなるとその輪郭はおかしいだろうとの意見が出て
なぜおかしいかを明確に言うためにも
原因の確定と疾患の本質の確定が必要で
そのためには研究のために暫定的な診断基準が必要で
その診断基準についていい加減ではないかという議論が始まり
という具合で循環する
表計算ソフトで循環参照してしまった感じ
ーーー
もともと、統合失調症と双極性障害が二つの対立する性質の疾患であるという認識はなかった
認識の病と感情の病と考えるならば、なにも対立する要素はないだろう
重なる場合も、重ならない場合もある
普通に考えれば、認識が病的であれば、感情は周囲に理解されないだろうし
感情が病的であれば、認識もそれにともなって影響されるだろう
クレペリンは現在見えている症状では区別できないと言い
経過で区別できるのだと言った
というよりむしろ経過で定義しようと言った
しかし経過は実際の医療現場にはあまり役に立たない
現在の病気の状態をみて、経過を予測し、そこから診断が確定し、治療が選択されるという筋になる
しかしそれがうまくいかない
現在症状では区別できないとクレペリンが言っているわけだし
また最近では躁うつ病でも長期経過を見れば、循環しつつ、レベルダウンすると言われている
(この点も厳密に言えばおかしいのであって、
循環しつつレベルダウンするものは躁うつ病ではないのだが)
二つの対立するものという印象を強く与えるのは
人格印象である
気質診断と言っているが
シゾチームでは井戸端会議が苦手、難しい本も読む、俗世間が苦手、真善美・無限への感性あり
チクロチームでは共感性高く、俗世間に生きる、テレビの悲しい場面で泣く
などと簡略に紹介されている
この中の何が本質であるか
また議論が始まってしまうのだが
箱を二つか三つ用意してどっち?と聞きたくなるのは性格診断の常である

いろいろと批判はできるし
もう少し詳細な説明が必要だと思うのだが
たしかに病前の気質としては対立的な部分があると思う
しかしそれは私がすでに古い教育に染まってしまっているからなのかもしれない
立食パーティでどのように振舞うのか観察しているだけで
ずいぶん沢山のことが分かるような気がするのだけれども
そのことも古い教育のせいなのかもしれない
古いフレームがある限り、そのようにしか見えない
その点を打破するためにも測定が必要である
どのようなフレームで見ようと、測定値は3であるとか、そのような数字
解釈はあとからすればいいだろう
だいたいが理論とか枠組みとか解釈ばかりが好まれる
測定がない
それが私には不満である
ビデオで全てを記録しておくほうが未来の役には立つだろう
一分間にどれだけの言葉を語り
どれだけの身振りをして
どれだけ表情筋を使ったか
未来になれば測定出来る
誇大妄想がどれだけ誇大であるか
被害妄想がどれだけ被害的であるか
自責妄想がどれだけ自責であるか
それを測定すべきである
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私の考えで言うと
統合失調症と躁うつ病は
例えて言えば一階の地震と二階の火事のようなもので
別のものであるが影響を与える
地震は軽ければすべては元に戻る、激しければ影響が残る
火事は消したとしてもあとが残る
躁うつ病は躁状態が本質で、うつ状態はその結果である
統合失調症の場合にも陽性症状が燃え盛ったあとにはうつ状態がみられる
陽性症状が感情領域で見られれば統合失調症と躁状態は区別が難しい
感情に認知が引きずられればやはり区別は難しい
感情・気分と認知というカテゴリーがそもそも
人間の言語習慣の結果の可能性が高い
長期経過としても躁状態を反復しても統合失調症の陽性症状を反復しても
レベルダウンが生じるだろう
治療としては陽性症状を予防することとと躁状態を予防することである