うつ状態の二つの起源

精神分析系ではうつ状態の説明をまず喪失体験とか喪の仕事(グリーフ・ワーク)とか

そのあたりから考えていて
肉親の死亡、パートナーとの死別、ペットロス、失職、などの、大切な人の存在や繋がりを失う経験との連続でとらえている
抑うつポジションとかそんな話に展開してゆく
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ドイツ生物学的精神医学では躁うつ病、うつ病、統合失調症、てんかん、これら精神病グループと
神経症グループに分類されて、フロイトが主に関わったのは神経症グループである
精神病としてうつ病を見立てる場合にはやはり躁うつ病や躁状態との関係が第一であり
その場合には躁状態がもたらす慢性持続性の疲労による、細胞の活動停止としてうつ病を捉える方法があると
私は思っている
それがDAM説である
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では精神分析では躁状態とうつ状態の関係をどう捉えているかといえば
病態水準としてはうつ状態、躁状態、妄想状態というように病態が重篤になる
なぜ躁状態とうつ状態が交代するのかの説明は少し弱いように思う
発達の系列として並べられ
病態水準として並べられるが
スイッチングに関しては弱い
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とても大きな心理的ショックの場合、まず仮死状態のような、抑うつ状態がみられる
動物が死んだふりをするような場合である
それも一種のうつ状態と認定はできるだろう
そしてそのあと、現実を否認しようとしたり、離人症状を呈したりする
さらにその後に、他責的になってみたり攻撃的になったりする
このあたりの反転については、どのように説明されるのか興味深いが
屁理屈以上の説得力のある説明があるだろうか
個人的な説としては
精神病的レベルのメカニズムで現実を否認し
神経症的レベルのメカニズムで内面の認識を否認する
そのあとで外部現実と心理現実を受容する
という時間系列になっていると思うが
たぶんそれは
外部現実を否認するには社会の中では困難であるというだけだろう
否認できるならどちらでもいいのだろうと思う
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その時期になってにわかに他人を責めて攻撃し続けるのは
ひとつは攻撃性というものが元々大量にあって
それが自分に向かっていると抑うつで
他人に向かうと他責と攻撃になるというのだけれど
では、なぜ、その向きにだけ向かうのか、うまく説明できるだろうか
この変化と使用する防衛機制の変化はぴったり一致していないように思う
自責は内面のことで
他責は外部への判断だとすれば
時系列としては他責がまずあり、次に自責が来てもおかしくないように思う
しかし現実はそうでもない
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しかしながらここで示唆されているのは
その人はもともと弱力性ではなかったということだ
強力性または精力性の人間であって
その人が大きな心理的ショックに出会った場合に
まず細胞機能停止で反応するはずはないのである
強力性の人間がショックで不快な体験をしたときに
当然精力性の反応を示すのだと思う
それが仮死状態とかうつ状態とかに見えているとしたら
見る方の判定方法が拙劣だということになるだろう
充分に精力性の反応をしているのであって
自責的であってもその大きさは次に来る他責を予定しており、そのために大きく自責しているかのようである
その証拠に自責を省略して他責に至る人は多いが
自責にのみとどまり他責に至らない精力性の人間というものはないと思う
(ここでは循環的定義にならないように注意したいが)
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そこで仮説は
喪失反応の時に「がっかりしている」のは
神経細胞が最大限に反応しているのだと考えることである
つまりその時期は躁状態である
そして、最大限に反応するから、その反動として、細胞の活動停止が来る、それがうつ状態である
喪失反応は正常反応に属する
そのあと、躁状態になり、さらにうつ状態になるのは病気である
喪失の重さを勘違いするのは現実把握のずれという、別の病気である
こちらのほうが病態としては深いと一般に言われる
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喪失体験の時にも、常識に反して、まず躁状態になり、つぎにうつ状態になる
だから病気になるのである
そうでなければ正常範囲の悲しみである
こう考えると、喪失体験をDAM理論で解釈できる
manie細胞が疲労しきってしまい活動停止するほどの過活動状態を経験している
そのあと活動停止となりうつ状態に至る
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がっかりして泣いているとき実は躁状態である
そう考えてつじつまの合う例は結構あると思う
泣いてさっぱりするという人もいるが
泣いているときは躁状態なのだと思う
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この二つのうつの起源が昭和のメランコリー型うつ病と
平成の 新型うつ病の違いだと思う
昭和型うつ病と平成型うつ病といってもいいくらいだと思う