そうですねえ。このところ休みごとに眠り続けていて、亡き恩師が認知症になった直前の頃のことを思っています。娘さんによれば、そのころ恩師は、すべてのことを億劫がり、眠ってばかりいて、大好きな音楽を聴かなくなり、本も読まず、人とも会わなくなった。食事にも興味がなくなり、一時は熱心だったワインの収集もやめて、チーズの物色もやめた。
私はすべてが億劫でたとえば洗濯をするけれど、物干し竿に並べるのをなるべく後回しにする。なにか充実するまで・きっかけがつかめるまで待たないと動き始めることができない。食べることもなるべく後回し。夜中にクッキーを食べてコカコーラゼロを飲んだけれど、次の朝にとても口の中が苦い。苦さがまた私の気分を後退させる。
地震のあとの原発報道で放射能の事が言われる毎に、岡山とか広島とかそのあたり、山口でも兵庫でもいいのだけれど、そんな場所にしばらく住むことも考える。また別に暑い日を経験すると、北海道の富良野で夏を過ごして冬になったら東京に帰ってこようかとも思う。山小屋で過ごすことはあまり魅力的でない。
マケドニアって世界史の最初のほうで習ったような気がする。世界史の副読本で年表があって、鉄の甲冑をつけた兵士の群れが描かれた何かがあったような気がする。水色だった。いまはスコピエと自分を名乗っているのですか。
兄弟と自分を比較して立ち遅れを感じるとのこと。たしかに兄弟は身近なベンチマークですが、比べて有益ならば比べたらいいですが、有益でないならばあっさり忘れましょう。幸せにならないなら思っても仕方がない。
おばあちゃんが生きていたらなんと言うか、どう考えるか、その言葉を受けて自分はどう生きているか、そのように考えはつながる。考え続けている限りおばあちゃんは実質、生きているわけですよね。幸せなおばあちゃんだと思います。