異常であることを維持していることは実は不思議である
自分は異常だと思ったら
訂正可能なはずである
それを訂正しないのは異常を自覚しないということなのか
よく分からない
例えばの話、座標軸なんていう喩えがよく出されるので使うとして
普通は直角に交わるX軸とY軸であるが
それが60度くらいになっているとして
世間の考え方とか感じ方とは異なったものになる
もちろんそれではやや不自由であるから
訂正できる人は訂正てしているはず
不自由を自覚しないなら訂正はしないだろう
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不自由を自覚しないで訂正しないのはパラノイアである
不自由を自覚して訂正するのは正常機能
不自由を自覚しているのに訂正できないのはどうしてなのか、それが問題
神経症はそのレベルでたとえば各種の不安性障害がここに分類される
たとえば自分が音痴であることを自覚しているならば訂正できるだろうとか
しかし実際には難しい
たとえば絵が下手な人
自分の絵が下手であることも、他人の絵が下手であることも、分かっている
分かっているのに自分が描く瞬間には訂正できないとはどういうことか
しかし絵がうまいことはどちらかと言えば特殊な才能である
音痴と下手な絵と神経症は似たようなメカニズムかもしれない
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異常であることを維持するのはじつは難しい
正常に戻してしまったほうが楽なのだ
なぜそれをしないか
多くは異常を自覚しないからだと言われる
たしかに
自覚すれば何とかなりそうでもある
60度の座標軸であるとして、それを直交座標に読み替えることができるはずなのである
90度にしなくてもいいから
外の世界では90度なのだと考えて変換すればそれでいいのだ
それができない
だから60度であることは異常の本質ではない
訂正できないことが本質である
歌が下手なことも
絵が下手なことも
自分の筋肉からの出力をを訂正できないから
下手なままである
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たとえば
夫婦で一対一で向き合うと
どちらが60度でどちらが90度であるか
完全に相対的になる
パラノイアに対しての多くの努力が無に帰するのはここに原因がある
パラノイアは多数決の原理を拒む
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すごく疲れる vs 休めない
すごく食べたい vs 絶対太りたくない
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異常であることを自覚しつつ
なおも異常のままでいること
なぜそんなことができるのか
メタ異常である
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座標軸が90度か60度かというならば
変換可能なわけだから
翻訳すればいいだけだ
それならば異常であるとも言えないだろう
どこか翻訳不可能な部分があるので
異常なのだろうと思う