翻訳語の問題

翻訳語の問題

たとえば英語やフランス語と日本語では語彙の輪郭が違うので
専門用語などを翻訳するときに困る
limitを限界と訳していつも日本語として意味が通るわけでもないが
いちいち面倒だし
分かっている人はlimitと読み替えてくれて意味が通じるので問題はない
読み替えてくれない人は意味が把握できないだろうが
書き手はそこまで親切ではない
そこでわからない人は多分他でもわからないからだ
そこでいっそのことリミットと書いたほうが限界と不親切に翻訳しているよりも
分かりやすいだろうということになる
経済学でいう限界もそのようだし
精神医学でいうlimitも日本語としては不安定なままだ
翻訳文化とはそのようなもので
言葉の境界がそもそも曖昧で
さらに言葉と言葉の関係が曖昧である
日本語自体が根本的に曖昧というのでもないと思うが
翻訳文化を長年習慣としているうちに曖昧さに慣れてしまい
さらには曖昧さをある種の味わいとして好む文化も成立したのだと思う
哲学とか心理学の翻訳の分からなさは本質的に分からない種類のものだと思う
分からないものなんだから分からないままに訳すのが忠実だとかそんな話もあったりする
本当は分かるはずのないものを
分かってしまうことが
超越論的ということである
その一方で日常使う言語はかなりの割合で方言である
生活に密着し実用に徹している方言はある意味で厳密である
東京の大学文化で発生している日本語というものがかなり怪しいのだ
しかし功罪測ってみれば功績の方が大きいだろうとは思う