世界の多様な解釈

この世界の多様な解釈ということを考えるわけです
たとえば光を波と考えても粒子と考えても解釈可能な部分があって
などと言われて
まあ、そうだなあと思うわけだけれど
根本的に考えると
波とか粒とかという解釈の枠が、
この場合は不適切なわけです
適切でない喩え話になっている
日常生活の尺度で何メートルとか何ミリとかの世界を生きて
その体験を解釈するには
波とか粒とかの考えが適切なのでしょう
しかしその考え方とか概念でうまくいかない場合もあるはず
ーー
生々しい現実の事件でも
いくつかの解釈が成立する場合はあるわけで
いくつか成立するなぁと思ってしまうと
一つの考えを絶対化するよりは曖昧だし居心地が良くない
複数の考えを相対化したままで保持することは爽快じゃない
しかし可能性としては成立するわけだから
知的に誠実である限りは
他説を排除したり却下したりできるわけでもない
ーー
自説を絶対化して他説をあくまで却下する典型としては旧来の宗教がある
むしろ排除の原理が一貫していて、さらにそこに人間関係とかヒエラルキーの原理とか、集団原理とかが
関係しているように見える
そうであるならば、相対化の居心地悪さに耐えて、知的に誠実である道を選んだほうがいいのだろう
たとえば比較宗教学などは一面ではそのような様相を呈している
しかしながらメタレベルでの排除の原理が動いてしまうのも事実である
諸宗教はどのような原理があるか
とか
諸宗教の時代ごとの変化を考察すると、人間の生産様式や文明発展に対応した部分が見られる
とか
そうした説明は諸宗教を説明して、相対化するのだけれど
その説自身は自分を絶対化する方向で考えていると思う
ーー
そうしたいろいろはあるのだけれども、年をとると相対化は受け入れやすくなるように思う
自分が一時的にでも絶対化への情熱に生きていたわけで
そのことの愚かささを思い起こすならば
やはり相対化して控えめに感想を述べることになるだろう
ーー
世界は多様であり
世界解釈も多様である
どのように多様であるかについてのメタ解釈もやはり多様である